はじめまして、合気道青楓会の東沢と申します。内田樹先生が主宰する凱風館という道場で、日々合気道の稽古・研鑽に励んでいます。
「青楓会」というのは私が東京で主宰する合気道の稽古会です。2012年に内田先生の許しを得て発足し、武蔵野市合気道連盟の一団体として現在も活動を継続しています。
さて、ここでは合気道がいかなるもので、何を目指すものなのかに絞って記述させて頂きたいと思います。合気道は日本で生まれた近代武道の一つですが、特筆すべき点が2つあります。それは「競技でない」という点と「殺傷のための術でない」という点です。あらゆる武道はその起源において、殺傷のための術理として開発されましたが、なぜ合気道は「他者と競うこと」も「他者を痛め、傷つけること」も目指さないのでしょうか。
武道が想定するのは常に危機的状況です。眼前の危機に心が囚われて生じる念を「隙」と言い、生死に関わる重要な問題として熱心な研究がなされました。その研究は心の在りようや呼吸法に至り、禅やヨーガをも参照しています。危機的状況においてさえ身体のパフォーマンスが損なわれず、むしろ最大限開花させるための方法論や技術論は「一切の対立や執着を超えた集中状態」や「同化的・統一的な心身の状態」といった「ある種の背理」に帰結し、真理を見出したと私は考えています。ですから私たちの合気道の稽古において、他者との比較の中で強弱勝敗を論じることはありませんし、相手に致命的なダメージを与えるための術理を探求することもありません。
合気道の稽古は概ね体操や呼吸法、型稽古の反復から成り、型稽古は切りや突き、腕を掴まれるという初期設定から始まります。この初期設定において「身体の自由が損なわれた」「可動域が制限された」と、失ったものを数え上げる事はなく、むしろ、残された身体資源、依然として自由に可動する身体部位を最大限活用します。つまり「相手が切ってくる、掴んでくる…そういう状況でも、私たちにはまだ、十分に運動の自由が残されている」というのが合気道的着想です。また、上記の初期設定を「1人ではできない運動の契機、あるいは贈与」と捉えます。相手が手を掴んで下さったお陰で、それを支えに方向転換したり、相手の力に乗って加速したりできると考えます。つまり合気道は、どのような状況下においても「今、此処に残された資源」に「今、此処で相手が贈ってくれた資源」を加算して、神韻縹渺とした芸術を創造する術理や哲学であると私は信じています。
上記の切りや突き、腕を掴まれるという初期設定は、人生で直面する、理解や共感を絶した「他者」のメタファーであると私は捉えています。「他者」というのは病や怪我、挫折といった難局の事かもしれませんし、日々の暮らしを共にする隣人の事かもしれません。あるいは自分自身かもしれません。その「他者」と直面する際の振る舞いや、対立を超えて共に生きる術について、合気道は常に私たちにその答えやヒントを教えていますし、この手で掬い取られないほど豊かな技術と知見を蔵しています。合気道は他人と自分を比べて一喜一憂することも、他人を傷つけることも目指さない代わりに、他者と共に生きることを、深く・強く・長く生きる事を目指すための術理であり哲学であると私は考えています。
とは言いつつも、私自身は明確な目的意識を持って合気道の門を叩いた訳ではありません。音楽を奏でるような美しい型稽古に魅せられて入門してからは「なんとなく足が向く」という理由で、芦屋川の桜を横目に道場まで通っていました。しかしやはり、言葉で説明し尽くすのは困難な種類のものですから、この辺りでキーボードを叩く手を止めたいと思います。
合気道をはじめませんか。稽古・研鑽を通じて共に生きる知恵と力を高めましょう。道場でお会いできる日を楽しみにしています。
青楓会主宰/凱風館助教 東沢圭剛(2016年3月)